とある地方公務員のブログ

このブログでは地方公務員が日々考えたことや思ったことをなんとなく書きます。

なぜ、公務員は「等」をつけたがるのか?

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「等」という言葉は本当にラクで、公務員が使う言葉ではトップワードなのではないでしょうか?
 

 

「等」は役所も議会も2度おいしい

翻って地方自治体の文書を見てみると、「等」が濫用されています。たとえば、条例や計画の中身には
 
「本計画は地域活性化、産業振興「等」の観点から・・・」
「補助対象としては、町内会、自治会、それに準する公益性をもつ団体「等」とする」
 
といったものが多いですね、これは先ほどの限定列挙のような考え方以前に、単に地域や、議会に突っ込まれないようにするためというものですね。
 
つまり、対象外とされている、フォローされていないという批判をかわせて、さらに規制や補助を広げるときにも便利なんですよね。
 
それに、議会としても質問のネタになるのが、この「等」です。質問で長々と条例、規則、計画を読み上げて、最後の最後に、「ところでこの「等」は具体的に何を指すのか?」という質すわけです。
 
議員も慢性的に質問ネタに困るし、だからと言って毎回同じ質問も飽きられるし、だからといってクリティカルな質問もそんなにできないし(すみません)、結局、この「等」に逃げるんですね。
 

「等」から見える現実

と、地方自治体と国の「等」の扱いが全く違うんですね。
「等」から垣間見えるわけです。常に政策は規制強化と規制緩和の間で揺れ動いており、それは危険ドラッグのような犯罪関係だけでなく、成長戦略に見える規制緩和、農林業のような規制産業まで、規制というのは産業に大きく影響し、それが既得権益化しやすい問題点もあります。
 
この「等」がいわば、行政裁量の余地を与えているのであり、よく言えば、行政が柔軟に判断できるわけなんですね。行政がやることはほとんど、明文化されており、その文書の行間を読むことで、この文書作成の裏にあった苦労だったり、甘さに気づくことが案外面白いんですよね。
 
「等」に限らず、法律というものは解釈しだい、という世界もありますので、解釈ができる「あそび」を作っているものです。それが法律の隙間という言われますが、繰り返しになりますが、明文化しないからこそ保たれている秩序もあるわけです。
 
話が大きくなりますが、結局日本の安全保障が今日まで保たれているのも、憲法解釈というものは、いわば官僚や政治家の努力の賜物だと思います。改憲派からは自衛隊国防軍として明文化しないことが問題だ、という批判がありますが、平和国家を掲げる我が国において、憲法9条を改正の持つ意味は十分に議論がなされるべきだと思います。
 

制度のスキマを埋めるのも結局解釈

難しい話で、スキマや先ほどの法律の「あそび」が社会問題を生み出しているのは、日々制度のスキマと向き合っている公務員なら知っていると思います。特に貧困の問題などはわかりやすいですね。保障が受けられない、助けることができない、という苦悩をケースワーカーの方は経験したことがあるのではないでしょうか。
 
スキマが生活している人々もいれば、そのスキマによって苦しんでいる人もいる。理想はそのような制度も含めた、大きな概念でいえば、システムの欠陥を改正によって修正していけばよいのですが、実際はそんな美しい、完璧なシステムなど不可能です。だからこそ、現場の自治体職員が半ば強引、半ば職人技のようなレベルでつなげているわけですね。